生玉稲荷神社の由緒
この五柱の御祭神名は、稲荷大神の広大なる御神徳の神名化されたもので稲荷五社大明神といい、主祭神は倉稲魂神であります。
生玉稲荷大神は、私たちが社会生活をしていく上において欠かすことの出来ない、衣・食・住をつかさどる守護神であり、広大無辺の御神徳をもった「福神さま」です。
そのほか「お稲荷さんの縁結び」と言われて男女の縁結びばかりではなく商工業の取引の縁を結んで事業、殖産の興隆を得しめ、現世全ての縁を取り持つ神さまであります。
また「お稲荷さんのお導き」としても知られ、道案内の神さまとして旅行安全、交通安全を守護され、ひいては人の一生をお導き下さる守護神としてあまねく信仰されております。
稲荷信仰を見ても分かる通り、全国で八万社あるといわれる神社の中で、稲荷神社は三万社以上あるとされています。これは日本という国の中で最も崇敬者の多い庶民信仰といえ、人々の熱い願いを背景に、この風土に深く根付き、いかに深く関わってきたかを示す証といえます。
そのほか「お稲荷さんの縁結び」と言われて男女の縁結びばかりではなく商工業の取引の縁を結んで事業、殖産の興隆を得しめ、現世全ての縁を取り持つ神さまであります。
また「お稲荷さんのお導き」としても知られ、道案内の神さまとして旅行安全、交通安全を守護され、ひいては人の一生をお導き下さる守護神としてあまねく信仰されております。
稲荷信仰を見ても分かる通り、全国で八万社あるといわれる神社の中で、稲荷神社は三万社以上あるとされています。これは日本という国の中で最も崇敬者の多い庶民信仰といえ、人々の熱い願いを背景に、この風土に深く根付き、いかに深く関わってきたかを示す証といえます。
創建は明らかではありませんが、社伝によると西暦1200年頃の創建とされます。
その後天正の初期、織田氏の一族小幡城主であった織田源三郎赤千代(信長の甥)は、この社を城内守護神として奉祀されました。
天正12年(1584)4月、徳川家康が小牧・長久手の戦いのために、犬山城から長久手へ向かう際、その道中にある小幡城主織田源三郎方に一泊しました。その折に、家臣がこの稲荷の霊験著しさを言上し、稲荷山より竹を伐り旗竿を作り献上したところ、家康は大いに喜んだといいます。
また軍用のぼりに文書を付し信仰の誠を記したとされます。
江戸末期には「小幡稲荷」とも呼ばれましたが、明治12年に現在の社名となりました。
慶安三年(1650)9月、大洪水により社殿を流失しましたが、再建しその後も幾度かの改修、造営を行っています。
大東亜戦争の大空襲によりほぼ全焼しましたが、総代会や崇敬者の皆様の御尽力により、昭和49年5月に現在の社殿を竣工しました。
今では、名古屋地区最大級の稲荷神社として守山区はもとより、周辺市区町村から多くの参拝者が訪れています。